東日本大震災発生時には、川崎フロンターレの選手・サポーターや春日山部屋の関取衆と一緒に募金活動したり、蕨市立西小学校(影山の母校)にビッグフラッグを寄贈したり、講演したりと地域に根差した活動をボランティアでしているうちに、さまざまな相談が寄せられるようになりました。
ためていた昭和時代のコレクションを公開したり、『わらびリンゴの唄』を作詞作曲したり、永年にわたって音楽活動を続けているうちに、蕨市民音楽祭とコラボレーションが昭和歌謡紅白歌合戦として結実しました。また、Jリーグ発足当時からサポーターたちと「幕と旗で世界を圧倒しよう。スタジアムを覆いつくせ」と一緒に培ってきたことから、埼玉のサッカー有名人の5人のひとりと言われるようになってしまいました。そんなことから、「さよなら私のクラマー」が公開され、蕨市で女子サッカー応援の機運が盛り上がると相談されるようになったわけです。

社会に還元してこその会社です。おかげさまで、ちっともお金は増えないけれど(笑)、お金では絶対に買えないものをたくさん得ることができました。

(有限会社染太郎・影山洋)